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1995年2月、ダイナスティカップ日本代表の衝撃。

ダイナスティカップという大会を憶えているだろうか。

1990年代に4度、開催された東アジア各国によるサッカーの国際大会だ。

我が日本代表は国際試合での初タイトルとなった1992年大会をはじめ、計3度、優勝を手にしている。その中でも、現在と同じ冬の時期である2月に開催された1995年の第三回大会は、日本のサッカーファンにとって特に記憶に刻まれる大会となった。

『ドーハの悲劇』を経て、必勝を期したはずの1994年秋の広島アジア大会でもベスト8で敗退、高みをめざしつつも壁に跳ね返され続けていた日本サッカー。何度目かの、「リスタート」となった1995年ダイナスティカップは、プレッシャーを背負いながらも結果を残したことで、大きなターニングポイントになった大会だった。

絶対的エース三浦知良はイタリアセリエAジェノア所属で不参加となったものの、チームの顔触れは井原正巳、柱谷哲二、長谷川健太、森保一等、「ドーハ組」が大半を占めていた。その中で、新たに背番号11を背負った若きドリブラーが日本代表躍進の原動力となった。前園真聖だ。初戦の香港戦から、中盤の攻撃的ポジションで、得意のドリブルやスルーパスを繰り出し日本の得点を演出するなど、攻撃の中心となり続けた。前年のアジア大会より代表入りし、沢登正明や岩本輝男らとともに若くして日本代表に抜擢されている。この香港で行われたダイナスティカップでは、日本代表監督がフリューゲルス時代の指揮官である加茂周氏だったこともあり、まさに前園が中心となる戦術、フォーメーションが組まれている。

さらに、ツートップは黒崎久志、長谷川祥之という、鹿島アントラーズコンビにより構成されている。黒崎は大会を通して計4点を挙げ得点王にも輝くなど、持ち前の得点感覚を如何なく発揮した。何より、日本代表において、カズという絶対的な存在以外でも、国際大会で得点を挙げるシーンがみられたことが新鮮に感じられたのだった。

それまで代表チームを牽引してきた、三浦知良やラモス瑠偉が不在だったこの1995年大会で2連覇を果たすことになり、アジア内での立ち位置も確立されていった。この頃には香港、中国とはもはや力の差が明らかとなっており、2大会連続でタイトルを争うこととなった韓国とも互角の結果を残している。

Jリーグが誕生して3年目を迎えようとしていた1995年2月、ダイナスティカップを制したことで、アジア内でも急速に日本サッカーは勢いを増していったのだった。(佐藤文孝)

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